エッセイとの再会

読書好きの私だが、手持ちの本を読みつくしてしまい、そこらへんにあった本を一冊手に取った。さくらももこのエッセイ「たいのおかしら」だった。実はこの本は以前手に取ったことがある。20年近く前の小学校、確かあれは4年か5年の頃のことだったと思う。私の小学校では各クラスの後ろに数冊の本が置かれていたのだが、その一冊がまさにこの本だったのだ。

しかし、その時にはすぐに読むのをやめてしまった。もちろん本のせいではない。小学生である私が追い求めていたのはキラキラとした夢の詰まった冒険物語や、小学生にとっては宇宙と同じぐらい未知の世界である海外の物語であった。そんな私にとって、山も谷もない日常を切り取った「エッセイ」というジャンルの面白さを感じるのは難しすぎたのだ。それから20年間、自分にはエッセイは向いてないと思いながら生きてきた。エッセイを避ける20年だった。しかし、ここにきて20年ぶりのエッセイ嫌いの原点回帰だ。もちろん、何の期待もせずに時間つぶしのつもりで読み始めた。しかし・・・。「あれ・・・。おかしいな・・・。おもしろいぞ?!」そう、20年ぶりに読んださくらももこのエッセイはとても痛快で、時にはほろ苦い、非常に面白い文学作品だったのだ。さくらももこの痛快でユーモラスな語り口、自分の日常とは全く違う何気ない日常、自分にも似た経験のある体験、それらすべてが私の心をくすぐっていた。

「一体私に何があったのだろう。どうしてエッセイがこんなに面白く感じるんだろう。」そう考え始めた私は二つの結論を出した。一つは私も年を重ねるにつれて感性が変わったのだということだ。私も30年足らずの人生だがいろいろなことを経験してきた。山も谷も起承転結もなくても、何気ない日常の中に楽しさや幸せや面白さを見つけられるようになった。やっと「エッセイ」を楽しめる年に自分の年が追いついたのだ。そして二つ目の原因。それは、「エッセイらしきもの」に私が知らず知らずのうちに慣れていたからではないだろうか。エッセイはこの20年避けてきた。手にも取ったことがない。それは事実である。けれど、このご時世、少し見渡せば、エッセイらしきものがあふれているのだ。そう。ブログやツイッターといったエッセイらしきものだ。今や芸能人に限らず多くの人がインターネット上で自分の生活や考え、その時々の気持ちを自由に投稿しており、人気のあるものは出版化もされるほど。中には写真があったり、かわいい絵文字がついていたり、たった一文、最悪、たった一言で完結しているものさえある。確かにそれは文学である「エッセイ」とは一線を画すものなのかもしれないが、自分の日常・気持ち・考えを文字化して多くの人に届けるという点では同じだ。むしろ、誰でも簡単に投稿できて、誰でも簡単に読めるこちらの方が、書き手にも読み手にも敷居が低くて、市民権としてはこちらの方が強いかもしれない。現に、たった一文、たった一言でも文才を感じさせる投稿だって多くあり、人気のブログでは一日に何万もの人が見ているものもある。こうして考えてみると、彼らだってエッセイストと言えるのではないか。もちろんプロではない。自分はエッセイストと言えば通行人に笑われるだろう。しかし、インターネットの発達によって、今日本には、いや、世界には小さなエッセイストたちがたくさんいるのだ。そして、私だってその小さなエッセイストになろうと思えばなれるのだ。

プロのエッセイストではない。お金を取る本ではない。だから肩肘を張る必要もない。何せ自由なインターネットの世界の話だ。

私も小さなエッセイストになって、この代り映えしない中にも2つとして同じもののない私の日常を、したためてみようかなと思ってみたりしてみた。

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